岩波古語辞典の編者の一人であり、萬葉集と今昔物語の研究のなかで日本の古代の深層を探っていた人だ。
けれども、何故かしらあまり有名ではないのだけれども。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E6%98%AD%E5%BA%83
この人が殆んど雑談のつもりで書いた『古語雑談』(岩波新書), 1986 は実は衝撃的な内容を持つ傑作かつ問題作で、そのためか、今月平凡者ライブラリーに加えられた様子。
http://www.amazon.co.jp/古語雑談-平凡社ライブラリー-さ-16-1/dp/4582766552
収められている内容は多岐に亙っていて、「にほう」の2種類「薫」(暖色系の滲出る色彩)と「馥」(香りがたちこめているさま)の違いから始まり、萬葉集で歌われるかけ算について、萬葉集で最も意味不明な歌について。という学者先生っぽい話から、「無力(ぶりょく)」が貧乏の意味だった、あるいは「弁当」、「たのしい」が裕福の意味だった、など、いにしえと現在での意味の違いについて触れる。また七夕祭りにネム(合歓木=ミモザ)の葉や豆の葉を川に流す風習について、貧乏神の風体とそのイメージの形成時(室町時代)について。和歌に字余りができる法則。さらには石川五衛門の釜煎りの刑の詳細(1954/8/24 家族共々)についても言及がある。一読して<とんでもない学者>の本なのだけれども、岩波新書の黄本という実にコンパクトに地味な風体で近くの図書館書架に並んでいる。
(私はこの本をほぼ今から10年前に図書館で読み、主要なところはメモを取っておいたのですが、その抜き出すところ余りにも多く「これはとんだアタリだ..」と、嬉しがっていた大学生でした。)
そして、この書のなかで一番問題かつ決定的な内容について、少し触れておこう(今日は前ふりが長い。申し訳ない)。
最近読んだ本の中で板倉聖宣の『虹は七色か六色か』(仮説社), 2003. がありました。虹の色をアメリカ人が「6色」と答えることに疑問をもった日高敏隆さん始めとする学者人が、「日本には藍色があるから7つに見えるのか」と合点していることを批判した書物です。板倉聖宣さんという学者というか教育者は、国内、海外の発明の歴史に熱心な方で、虹などの光の研究がアリストテレス--ゲーテ--ニュートンに引き継がれている事を常識としている点から、当初はイギリスでも虹は7色だったが教育上の方針で識別しにくい色を省略して6色として教育されるようになったのだ、と海外の教育史の観点から批判したのでした。
しかし、上述の『古語雑談』には、さらに重要かつ深刻な内容が記載されているのを、私は知っていました。「日本には藍色があるから7つに見えるのか」と合点した、と日高さんが思ったのは面白い観点ですが、藍とは、そもそも染料の草の名前であり、「色」ではない。少なくともヨーロッパのred,blue,indigoのような抽象的区分としての<色>ではない、ということです。
日本の伝統色について見ると瞭かなのですが、日本の色彩は文様の名前と一緒に配備されることが多いのです。つまり水玉の模様だね、とか、カシミヤのセーターだね、という観点からは「藍染めの絞りだね」と述べているのですが、抽象的な色としての藍が存在していたわけではなかった。
『古語雑談』では、平安以前の伝統的な色彩として、「赤」「青」「白」「黒」のみを挙げています。
「赤」はそのうちに「黄」「橙」「紫」「赤」を含む暖色として、
「青」は「緑」「藍」「青」、(地方によっては「黄」を含む)とされています。
「白」と「黒」とは光の明暗を指しているわけですから、この意味では虹は平安以前の日本にとっては、赤と青の二色だった、ということになります。
後に伝統色として定義づけられる色はもちろん、「みどり」(新芽)、「くれない」(紅花)、「むらさき」(紫草)という、一見抽象的色彩ではと思われる色名にしても、物理的な草の名称を起源としている、と言及されております。
実際、どう見ても「緑」の信号を思わず「あお」と言いたくなる自分を顧みるときに、「虹の色を七色に分けた」というのが日本人らしくないと感じます。反対にニュートンが網膜に逆さに映る光について発表したり、自然光をプリズムによって分光し、七色と識別した直後に、「光」と「色彩」について、仔細に叙述するような詩作品がイギリスで極端に増加した、と言うような歴史を辿れば、虹の色について、日本は海外から後で学んだのであって、それは、あるいは林羅山が完全否定していた「地動説」と、地上の球体説を受け入れた時期、おそらくは幕末から明治にかけて、と推測することが自然です。
そういう意味では、板倉聖宣の『虹は七色か六色か』の主張は正しいわけですが、『古語雑談』を読んだ人にとっては、「ああ、この人は日本の伝統色の起源というのを《隠し鍵》としてほのめかしているな」と感づくのに十分でした。批判としては適切ですが、『虹は七色か六色か』は若干窮屈な印象を拭えません(反対に日高敏隆さんの『動物の言い分 人間の言い分』(角川oneテーマ21) ,2001. は、虹の話から始まって自由闊達に動物行動学のフィールドを紹介しており、むしろ好感がもてます)。
学者が寄ってたかって2000年くらいに議論し始めた問題について、1986年の時点で予め釘を刺して置いた感じの『古語雑談』。これを書いた佐竹昭六 先生の力量は推して知るべしです。もうすこし沢山著述されていたら、と惜しまれます。
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